今なお残るコンスタンティノープルの城壁

テオドシウス城壁の歴史

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かつて東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルの鉄壁の守りを築き上げた城壁は、それを造らせた時の皇帝の名にちなんでテオドシウスの城壁と呼ばれた。歴史的な戦いを経て今なお残るこの城壁には古代ローマ帝国を今なお感じずにはいられない。ここではその歴史について触れておこう。

■ 早わかり!テオドシウス城壁

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テオドシウス城壁
テオドシウス城壁

ここトルコ・イスタンブールはもともと古代ローマ帝国の都市コンスタンティノープルとしてその名を馳せた。コンスタンティヌス大帝はローマからここコンスタンティノープルに首都を移動している。つまりここは古代ローマ帝国の首都そのものだったのだ。395年に東西分裂してからはここは東ローマ帝国の首都となった。

5世紀初頭になりテオドシウス2世という皇帝がここに3重の城壁を築いた。これがその後1000年以上も難攻不落の城壁となる。

3重の壁は、一番手前に20メートルの堀があり、次に最初の壁。これは壁というよりは柵の様な物であったが、人が弓矢を防ぐには充分だった。柵の後ろには幅10メートル程の通路が走っており、2つ目の壁が次にくる。2つ目の壁は10メートル程あり、その裏にまた幅5メートルの壁があり、第三の壁が17メートルの高さで待ち構えている。

コンスタンティノープル三重の城壁
コンスタンティノープル三重の城壁

この三重構造が金角湾からマルマラ海まで延々と続くのである。外部からの侵入者が個々を突破するのは殆ど不可能だと思われた。

コンスタンティノープル3重の壁構造
コンスタンティノープル3重の壁構造

一度は同じキリスト教徒の第4回十字軍によって1204年にコンスタンティノープルは陥落するが、この時はこのテオドシウス城壁からの攻撃ではなく、金角湾から攻め込まれての敗北だった。

その後、東ローマ帝国は再興するも結局ファーティフ・スルタン・メフメト2世率いるオスマン帝国軍に屈する。

オスマン軍はウルバンという職人が作成した巨大な大砲を引き連れて執拗にテオドシウス城壁を攻撃した。ウルバンの大砲は300キロもの巨石を1.6kmも飛ばす程の威力で、難攻不落の3重の壁もこの時に大打撃を受けた。

テオドシウス城壁
テオドシウス城壁

それでもテオドシウス城壁は今なおその殆どの姿をとどめている。というのも、城壁は結局堕ちなかったのだ。オスマン帝国のメフメト2世はウルバンの大砲によって大打撃を与えたものの、結局門の鍵のかけ忘れの隙を突いての城壁突破だったのだ。

一度なだれ込んだオスマン軍の勢いはとめられず結局皇帝コンスタンティヌス11世はそのまま戦闘の中に散ったという。

エディルネ門:テオドシウス城壁
エディルネ門:テオドシウス城壁

勝利したスルタンメフメト2世はカリシウス門から白馬にのってコンスタンティノープルに入場した。今その門はエディルネ門と呼ばれている。

 

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